一乗寺下り松

一乗寺下り松(いちじょうじさがりまつ)

宮本武蔵・吉岡一門の決闘で知られる八大神社境内地「一乗寺下り松(さがりまつ)」は、古くからの交通の要所で、松の前で道が2つに分かれます。北へ折れると白鳥越え、東へ折れると今道越え、共に、比叡山を経て近江へ通じる、平安時代からの古い街道です。

一乗寺下り松古木(さがりまつこぼく)

宮本武蔵の決闘の時代の前から明治時代まで生きた一乗寺下り松の大木の一部は、現在、八大神社境内の本殿西側に御神木として大切に祀られ、広く崇敬を集めます。毎年、5月の大祭と正月の前に、注連縄が新しくされます。

植え継がれる現在の一乗寺下り松

武蔵決闘当時の初代下り松は、昭和20年まで現在の位置にあり、御神木として神社境内に移され、2代目は修学院離宮から移植され、その後、3代目に植え替えられました。
この3代目が、昭和56年5月頃、松くい虫の被害により枯死し、氏子から、丹精を込めて育ててきたクロマツを奉納頂き、昭和57年1月に4代目となる下り松が植樹されました。
その後、4代目下り松は30年以上に渡り長く一乗寺のシンボルとして生きましたが、平成26年に樹木の3分の1ほどが枯れた事から、同年12月に5代目下り松が氏子の寄贈により植樹され、令和の御代となった現在も青々と立派に育っています。

「宮本吉岡決闘之地」石碑

大正十年、広島県呉の剣士「堀正平」氏により、自書自刻にて建てられた石碑です。堀氏は、後に剣道藩士九段となられた大家です。
堀氏は、以前から名刀を売ってでも、宮本武蔵と吉岡一門との決闘の碑を、その地下り松に建てたいと思っておられました。
石碑に「大正十辛酉年堀翁女建之」とあります。これは、同年堀氏の先妻(翁)がお亡くなりになり、その供養として自ら彫られたことを示しています。剣士からの御香典と親族からの御供えを足しにされ、自費を以って建碑されました。

(剣道藩士九段堀正平遺稿集「正剣記」より)

一乗寺下り松に伝わる逸話

古くから、京都から比叡山や近江国へ至る交通の要所である一乗寺下り松には、由緒や逸話が数多くあります。

中でも有名なものが「敦盛遺児伝説」です。一の谷で戦死した平敦盛の遺児が松の下に捨てられているのを法然上人が拾い上げ、立派な僧に育てあげたと、伝えられています。

また、建武3年(1336)、大楠公楠木正成公が足利軍と対峙(たいじ)して、この地に陣を構えたことも伝わっています。