宮本 武蔵

八大神社と宮本武蔵

八大神社境内地「一乗寺下り松(さがりまつ)」に於いて、慶長9年(1604)剣聖宮本武蔵が吉岡一門と決闘しました。八大神社は決闘前に武蔵が奉拝した神社としても知られ、境内には、決闘当時の「下り松古木」が御神木として祀られ、宮本武蔵像が建ちます。

「吉岡亦七郎、事を兵術に寄せ、洛外下り松辺に会す」小倉碑文

「京洛東北ノ地、一乗寺藪ノ郷下り松ニ会シテ戦フ」ニ天記

吉川英治氏著作に描かれた八大神社と一乗寺下り松の決闘

<『随筆宮本武蔵』(講談社)遺跡紀行より引用・抜粋>

「独行道(どっこうどう、どくぎょうどう)」は武蔵の有名な遺文で、武蔵が人に訓えるために誌したものでなく、彼が自己の短所を自己にむかって反省の鏡とするために書いた座右の誡であったところに、独行道の真価はあるのである。

武蔵が一乗寺下り松に立って多数の敵にまみえた日のまだ朝も暗いうちに、彼は、死を期してこの危地へ来る途中で、八大神社の前で足を止めて、「勝たせたまえ。きょうこそは武蔵が一生の大事。」と彼は社頭を見かけて祈ろうとした。
拝殿の鰐口まで手を触れかけたが、そのとき彼のどん底からむくむくわいた彼の本質が、その気持ちを一蹴して、鰐口の鈴を振らずに、また祈りもせずに、そのまま下り松の決戦の場へ駆け向かったという。
武蔵が自分の壁書としていた独行道のうちに、

我れ神仏を尊んで神仏を恃(たの)まず

と書いているその信念は、その折ふと心にひらめいた彼の悟道だったにちがいない。武蔵に開悟を与えたことに依って、一乗寺下り松の果し合いはただの意趣喧嘩とはちがう一つの意味を持ったものと僕はそう解釈する。

鳥居をくぐると、すぐ狭い坂道をどうしても登って行くようになる。かなり急だ。登りきった所の右がわの苔さびた一棟
が、石川丈山の旧居詩仙堂の跡である。その高い土地から立って、一乗寺下り松の追分を眼の下に見下ろすと、その仏暁(ぶつぎょう)に武蔵がどう闘いの地へ臨もうかと苦念したかという気持が突然暗い松かぜの中から囁かれて解けたような暗示を受けた。ここから静かに下り松を見る。とすると、実に絶好な足場なのである。高い土地から敵の背面を衝いて、突如と吉岡の本陣へ直進することができる地は、絶対にここの山腹よりない気がする。

<『宮本武蔵』(講談社) 風の巻より引用・抜粋>

すでに空身(くうしん)。何を恃み何を願うことがあろう。戦わぬ前に心の一端から敗れを生じかけたのだ。そんなこと
で、なにがさむらいらしい一生涯の完成か。

だが、武蔵はまた卒然と、「有難いっ」とも思った。

真実、神を感じた。幸いにも、戦いには入っていない。一歩手前だ。悔いは同時に改め得ることだった。それを知らしめてくれたものこそ神だとおもう。

彼は、神を信じる。しかし、「さむらいの道」には、たのむ神などというものはない。神をも超えた絶対の道だと思う。さむらいのいただく神とは、神を恃むことではなく、また人間を誇ることでもない。神はないともいえないが、恃むべきものではなく、さりとて自己という人間も、いとも弱い小さいあわれなもの、と観ずるもののあわれのほかではない。

宮本武蔵像

「一乗寺下り松の決闘」から400年を迎える事を記念してブロンズ製の宮本武蔵像が平成14年10月に建立されました。
宮本武蔵の決闘時の年齢が21歳であった事から、若かりし武蔵をイメージしデザインされました。
建立にあたり、多くの一乗寺の氏子の皆様・崇敬者様から、多大なご奉仕とご奉賛をいただきました。

平成14年10月27日建立奉告祭の斎行及び記念式典の実施
制作作家定朝法印四十一世仏師田中文彌(柴田篤男)

平成14年10月27日建立記念式典の様子