御由緒

御由緒

創祀は不詳ですが、永仁2年3月15日(1294年)に八大天王(はちだいてんのう)が勧請されました。

京都の洛北一乗寺地区の産土神様、氏神様。

祇園八坂神社と御同神をお祀りし、北天王(北の祇園社)とも称され京の表鬼門に位置し、方除、厄除、縁むすび、学業の神様として古くから多くの人々の崇敬を集めます。

後水尾(ごみずのお)天皇、霊元天皇、光格天皇、修学院離宮行幸の際にお立寄り白銀等の御奉納がありました。

明治6年10月5日藪里牛頭天王(やぶさとごずてんのう)社

明治7年3月5日舞楽寺八大天王(ぶがくじはちだいてんのう)社を合祀。

大正13年幣帛供進神社に指定されました。

剣聖宮本武蔵が、境内地である「一乗寺下り松(さがりまつ)」に於いて吉岡一門と決闘し、その決闘の前に奉拝した神社としても知られ、境内には決闘当時の「下り松」古木が祀られています。

現在の御本殿は大正15年造営、流造社殿、総尾州檜造り。

略年表

  • 永仁2年(1294)3月15日 八大天王勧請
  • 永享10年(1438)9月 舞楽寺天王勧請
  • 永享10年(1438)11月 藪里牛頭天王勧請
  • 永正3年(1506) 鰐口奉納
  • 文録5年(1596) 社殿造営
  • 寛永16年(1639) 社殿修復
  • 寛永20年(1643) 石川丈山筆扁額奉納
  • 享保3年(1719)鳥居建立
  • 享保13年(1728) 狛犬建立
  • 明和2年(1756) 社殿屋根修復
  • 文政5年(1822) 本殿鈴奉納
  • 嘉永2年(1849) 社殿造営(現神宝庫)
  • 明治6年(1873)10月5日 藪里牛頭天王社合祀
  • 明治7年(1874)3月5日 舞楽寺八大天王社合祀
  • 明治36年(1903) 石碑建立
  • 大正9年(1920) 献灯建立
  • 大正15年(1926) 社殿造営(現本殿)
  • 昭和6年(1931) 一乗寺村の京都市合併編入
  • 昭和15年(1940) 紀元2600年記念:下り松一ノ鳥居玉垣造営
  • 昭和20年(1945) 下り松の古木が祀られる
  • 昭和39年(1964) 御鎮座六百七十年祭:社殿改修
  • 平成5年(1993)11月 御鎮座七百年祭:社殿改修・参集所新築
  • 平成14年(2002)10月 宮本武蔵像建立

寛永20年(1643)扁額社頭横額

石川丈山筆隷書八分字 (八大神社所蔵)

宝暦元年(1751)一乗寺絵図

(八大神社所蔵)

「古社をめぐる信仰圏」日本史学者林屋辰三郎氏

~八大神社鎮座七百年記念誌序文より~

八大神社は、旧村社、素盞嗚命、稲田姫命、八王子を奉祀した。その素盞嗚命は民間では牛頭天王と称えられており、洛東・祇園社の信仰圏に最も近いと云えるが、そのほか洛北・賀茂社、洛中・御霊社そして天台・日吉社の信仰圏からも影響を受けたに違いない。この古社はこうしたさまざまな信仰圏のちょうど中間に位置したが、基本は神社に伝える剣鉾が示すように天神信仰であったろう。もとは範囲もひろく七里と云われる修学院・山端・高野・一乗寺などの村々の字(あざな)ごとに散在したささやかな天王社を統合し、ついには現在の一乗寺・藪里・舞楽寺の三区域の人々を中心に信仰圏を確立したのである。

旧記によると700年前といえば鎌倉時代の永仁2年(1294)3月だが、その年時は既に亡失した棟札によるらしい。従って今は一応この旧記を基として祭典も行われているのである。しかし一乗寺に限ってもこの名称の寺院は、平安時代の中期に溯るものと考えられるし、この古社も信仰は祇園社や日吉社の創祀と照らし合わせて、平安建都に200年近づけて考えることも出来よう。但し今は不詳の部分をすっぱり切って、旧記を基にすることでも十分満足できる古社なのである。

御祭神

  • 素盞嗚命
    すさのをのみこと
  • 稲田姫命
    いなだひめのみこと
  • 八王子命
    はちおうじのみこと
    (五王子・三王女)

素盞 嗚命

すさのをの みこと

稲田 姫命

いなだひめ の みこと

御祭神の「素戔嗚命」について

神話の中の素戔嗚命

強く激しい気性で、田の溝を埋めたり畦をこわしたりなど粗暴な行動が多かったので、天照大神の怒りを買い、天照大神は天石窟に隠れてしまい、天地が闇になりました。神々は、素戔嗚命につぐないを命じ、素戔嗚命は髪を切りひげを抜き手足の爪を抜かれて高天原から追放されました。その後、素戔嗚命は、心から悔い改めて昼夜風雨の中を放浪辛苦を重ねたと言われています。また、その後、出雲の国で八岐大蛇を退治して稲田姫とその両親を助けて、稲田姫と結婚されたとのことです。

牛頭天王(ごずてんのう)と呼ばれる素戔嗚命

「疫病をはやらせる神」と「疫病をはやらせる神を支配する神」がいる、と信じられています。この2つはともに、人間に恨みを抱く怨霊神として恐れられていました。このうち、「疫病をはやらせる神を支配する神」の方を、古くから「牛頭天王」と呼んでいます。牛頭天王の姿は、牛の頭に忿怒鬼神の相を表した三面の神体です。この牛頭天王信仰は、元来、インドの祇園精舎の守護神です。仏教とともに、中国・韓国を経て日本に伝わったものです。牛頭天王の激しく荒々しい気性などが素戔嗚命と類似しているので、両神の習合になったのではないかと言われており、これが素戔嗚命の本地と考えられるようになりました。

御神徳

方除け(ほうよけ)・厄除け(やくよけ)

方除けとは方角や方位による災いを除けることです。
八大神社は、古来より「北天王(北の祇園)とも称せられ、皇居守護神十二社中の一つと云われます。霊山「比叡山」の麓、平安京の北東「表鬼門」に鎮座し、方除け、厄除けの神として厚く信仰されています。現在、八大神社には、建築に関わる祭典(地鎮祭、工事安全祈願、増改築清祓、上棟祭、竣工祭など)や厄祓いの御祈祷のご依頼が多く寄せられております。

禊祓いの神

御祭神である素戔嗚命(スサノオノミコト)は、元来、天真爛漫・無邪気でしたが、祓いを受けられた後は本来の神としての自覚のもとに自ら進んで辛苦を重ねて、立派なご神格を得られました。したがって、罪穢れを祓い清める神として祀られています。

農耕の神・水の神

古来より水の神である龍(大蛇)を退治された素戔嗚命(スサノオノミコト)は、水を司る神として、また、水と関係の深い農耕の神として、信仰されました。また、妃の稲田姫命(イナダヒメノミコト)も、その名の通り「田の神様」です。

森林・山の神

素戔嗚命(スサノオノミコト)が高天原より降られた時、お連れになった御子は、たくさんの樹の種を持って降られました。この樹の種を日本全国に播いて青山とされたため、森林・山の神としての御神格をお持ちになりました。

縁結びの神・和歌の神

素戔嗚命(スサノオノミコト)は、出雲において稲田姫と劇的なめぐり会いをされて結婚されたことから「縁結びの神」として有名です。また、稲田姫と新しい宮を造られた時に歌をお詠みになりました。「出雲立つ、出雲八重垣、つま籠みに八重垣つくるその八重垣を」これは日本の和歌の始まりとされ、素戔嗚命(スサノオノミコト)は「和歌の神」としても信仰されています。

学業・教育の神

素戔嗚命(スサノオノミコト)の六世の孫に当たる大国主命(オオクニヌシノミコト)が、兄にいじめられて素戔嗚命(スサノオノミコト)に助けを求めました。素戔嗚命(スサノオノミコト)は、厳しいが温情ある方法で、大国主命(オオクニヌシノミコト)を鍛錬・教育されました。後に、大国主命(オオクニヌシノミコト)は、素戔嗚命(スサノオノミコト)の娘の須世理姫と結婚され、出雲へ帰って立派に国を統治されました。そのため、学業・教育の神としての御神徳をそなえておられます。

必勝開運

八大神社と所縁が深い宮本武蔵は、「諸流の兵法者に行合(ゆきあい)、六十余度迄勝負すといへども、一度もその利を失はず。」(『五輪書』地之巻序文より)と書き遺し、生涯敗れる事がなかったと伝わります。その宮本武蔵の名が広く天下に知られる事となる吉岡一門との決闘の前に奉拝した八大神社は、現在「必勝開運」のお社として、武道やスポーツの競技者を中心に多くの人々から崇敬を集めます。